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東京高等裁判所 昭和33年(お)1号 決定 1965年10月18日

主文

本件再審請求を棄却する。

理由

本件再審請求の理由は、弁護人寺坂銀之輔、同佐藤哲郎共同作成名義の昭和三三年二月一七日付再審請求書、同寺坂銀之輔、同佐藤哲郎、同寺坂吉郎共同作成名義の昭和三四年四月一三日付再審申立補充書、同寺坂銀之輔、同佐藤哲郎、同寺坂吉郎、同中田真之助、同大辻正寛共同作成名義の昭和三九年八月二七日付再審請求理由書各記載のとおりであって、これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。

一、再審請求理由の要旨

所論は、再審請求人は亡高杉五作(明治二九年五月一四日生=以下五作という。)の妻であったところ、五作は昭和一二年八月三日横浜地方裁判所において放火罪により懲役八年(未決勾留二〇〇日算入)の有罪判決(以下第一審判決という。)を受け、東京控訴院に控訴の申立をしたが、同院は昭和一三年一月二六日懲役八年(未決勾留原審二〇〇日当審六〇日算入)の有罪判決(以下第二審判決という。)の言渡をしたので大審院に上告の申立をしたところ、同院は同年五月三日上告棄却の判決(以下上告審判決書という。)をなし、右第二審判決は確定したので、五作は昭和一三年五月三日から刑の執行を受けはじめ昭和一八年四月二九日仮出獄を許されて出所しそのまま刑の執行を了り、その後昭和三二年一一月一〇日死亡したものである。

しかしながら五作は右第一、二審判決認定の放火をなした事実はないのであって、第一審における公判審理の過程から終始一貫して犯行を否認し無罪の主張を続けその叫びは漸く新聞及び週刊誌等にも掲載され各方面の注目と同情を集めるに至り、昭和三一年一〇月二五日横浜地方法務局に対しその寃罪を訴えて人権擁護のための申立をし、同局においてもこれを受理して調査に乗り出したものであり、また再審請求人は夫五作の死後その遺志をつぎ再審請求をするとともに昭和三三年五月日本弁護士連合会に対しても人権擁護のためその調査の申立をしたものである。しかして、右第二審判決において五作の有罪を認定したのは、該判決挙示の証拠のうち高杉五作に対する予審第一、二回訊問調書中の自白が基となったものであり、これを除いては同人の放火の犯行を認定して有罪の言渡をなすことはできず、当然無罪の言渡をしなければならないのである。しかるに、右予審における五作の自白なるものは、同人がその捜査に当った小田原警察署の警察官から約一箇月にわたり昼夜を分たず言語に絶する拷問を受けたため、右拷問によって生命の危険を感ずるの余り犬死するよりはむしろ警察官の言うがままに自己の犯行であると一応自白して置き後日公判において真相を述べてその寃罪であることを明らかにする以外に途なしと考えた結果、警察官に対し真実に反する虚偽の供述をしたものであって、これに基づいて自白調書が作成せられ、予審判事に対しても右警察での拷問の影響により意思を全く強制された状態の下に同様の供述をさせられたものであって、右予審第一、二回訊問調書中の自白はいわゆる強制、拷問若しくは脅迫による自白であるのみならず、放火の原由、動機並びに放火の顛末についても幾多の矛盾があるので証拠能力はもとより何等の証明力をも有しないのである。しかるところ、五作の予審判事に対する右自白が以上の理由により有罪判決の証拠となし得ないものであり、したがって同人に対し無罪を言渡すべき明らかな証拠として証人大津フミ、同伊勢井福松、同菅沼安太郎、同白井甚吾、請求人高杉フクの各供述その他の書証があらたに発見されるに至ったので、旧刑事訴訟法第四九二条第一項第四号第四八五条第六号により再審の請求をするというのである。

二、五作に対する放火事件の判決確定および刑の執行までの経過、

よって審按するに、本件再審請求の対象となっている五作に対する放火被告事件の刑事確定記録は昭和二九年一〇月保存年限満了により廃棄処分せられ現存しないのであるが(横浜地方検察庁検務課長宇田川正雄作成に係る昭和三三年七月七日付「刑事確定記録取寄嘱託について回答」と題する書面参照。)、再審請求人提出にかかる五作の戸籍謄本、横浜地方裁判所の昭和一二年八月三日付第一審判決、東京控訴院の昭和一三年一月二六日付第二審判決、大審院の同年五月三日付上告審判決書の各謄本、仮出獄証票写等によれば再審請求人は五作の妻であったが、五作は昭和三二年一一月一〇日死亡したこと、同人は昭和一二年八月三日横浜地方裁判所において放火罪により懲役八年(未決勾留二〇〇日算入)の有罪判決を受け、東京控訴院に控訴の申立をし、昭和一三年一月二六日懲役八年(未決勾留原審二〇〇日当審六〇日算入)の有罪判決を受け、さらに大審院に上告の申立をしたが、同年五月三日上告棄却の判決を受け、右第二審判決が確定したこと並びに五作は同日刑の執行を受けはじめ昭和一八年四月二九日仮出獄を許されて小菅刑務所を出所し昭和二〇年八月一五日刑期を終了したことが認められる。

三、第二審判決によって確定された五作の犯罪事実と挙示の証拠の概要、

右第二審判決謄本によれば同判決によって確定された犯罪事実は、「高杉五作は、数年前より佐藤元吉所有の神奈川県足柄下郡湯河原町門川五二番地所在の木造亜鉛葺平家一戸を借受け妻フク及び養子信雄と共に居住し、フクの義父二見市太郎より資金を仰ぎ、主として同町の温泉旅館に鰹節を売り込んでいたものであるが、近時同業者の競争が漸く激しくなり、自己の常得意先をも脅かされるに至ったので、かくては当分損益にかかわらず競争者より廉価に鰹節の売込みをして得意先との取引を続けて行かなくては自己の営業の地盤も確保し難く、これがためには格安に大量の商品の仕入れをするのに相当多額の資金を要することとなるが、二見市太郎もかような利益のない取引のためには快く資金を提供してくれないであろうことをおそれその金策に苦慮していたばかりでなく、当時五作には親戚その他に対し合計金一、一〇〇円の借財があってその弁済についてもまた常に懸念していたが、昭和一一年五月一二日夜半偶偶自宅にある価格一、〇〇〇円の商品鰹節類につき明治火災保険株式会社と二口で保険金額合計金四、〇〇〇円の火災保険契約を締結してあるのを想い出し、右保険金を得て営業及び負債弁済の資に充てるため、自ら放火して自宅と共に所持の商品を焼燬しようと決意し、翌一三日午前〇時過ぎ頃自宅西南方の隣家須藤公平方物置内堆肥置場の東側五作方に近接する薪小屋に到り、同小屋内東側に積んであった薪の上に一掬いの枯杉葉を置き、右薪小屋より五作方に延焼すべきことを予期して、右枯杉葉に所携の燐寸で点火して放火し、よって右物置より延いて五作方を全焼させてこれを焼燬し、更に右須藤公平方外付近一帯の住家二〇数戸、物置等一〇数棟を類焼するに至らせた。」というのであり、右判決は、右犯罪事実認定の証拠として、(一)五作の判示家屋に判示家族と共に居住し、判示の如く営業をしていた事実、判示火災保険契約締結の事実並びに判示火災当時五作方に価格一、〇〇〇円位の鰹節の存した事実につき五作の第二審公判廷における同旨の供述、(二)放火の原由、動機並びに放火顛末につき五作に対する予審第一、二回訊問調書を通じ判示同趣旨の供述記載、(三)判示物置小屋より五作方に延焼した事実につき証人高杉フクに対する予審第一回訊問調書中該事実に照応する趣旨の供述記載、(四)火災の結果につき強制処分手続における予審判事の検証調書中判示に照応する検証の結果の記載を引用し、これらを綜合して前記犯罪事実を認定していることを認めることができるのである。

すなわち右によれば第二審の有罪認定の証拠としては五作の右予審第一、二回訊問調書における自白が主たる証拠であることは明らかであり、他の各挙示の証拠のみによっては五作を以って本件の犯人であると認めるに足らないことも所論指摘のとおりである。

四、五作の放火事件に対する第一、二審公判及び上告審の審理の経過、

前掲各判決書謄本及び当裁判所における高杉フク、山口作之助の各供述その他記録によって五作に対する放火事件の第一、二審及び上告審の審理の状況を見るのに、五作は横浜地方裁判所における第一審公判廷において予審廷における自白を飜えして放火の事実を否認するにいたり、且つ小田原署における拷問の点を主張し証拠物として拷問のため破れた当時の着衣を提出したのに対し、裁判所は五作の取調にあたった小田原警察署の巡査部長尾形林蔵を証人として尋問したが拷問の事実について尋問が行われたか否かについては必ずしも明確でない(後記参照)。ついで、第二審たる東京控訴院においては五作は小田原署の取調の状況につき詳細に供述し、二〇日間にわたり言語に絶する苛酷な拷問を受けた旨極力主張し、同院は拷問の点につき特に証人大津要之助、同中村茂与を尋問し、更に事実及び情状の関係につき証人朝倉好太郎、同白井甚吾の尋問をなしたが結局は有罪の認定をなし五作及び弁護人の主張を斥けた。上告審たる大審院においては、五作及び弁護人岡村正男、同山口作之助、同田上隆之から特に小田原署における拷問の事実を述べ、予審第一、二回訊問調書における自白の不任意性を主張すると共に各弁護人から理由不備、理由齟齬、事実誤認の主張をなしたところ、大審院はこれらの主張に対し「原判決(第二審判決)挙示の証拠によれば原判示放火の犯罪事実を証明するに足り原判決には所論の如く証拠不備、理由齟齬の違法あるを認め難し、記録を精査検討するも原審の援用する被告人に対する予審第一、二回訊問調書中に記載の供述が所論の如き事情の下に為されたる不任意のものなること及びその供述が真実に吻合せざるものなることを肯認し難くその他原判決に重大なる事実の誤認あることを疑うに足るべき顕著なる事由あるを見ず云々」として、問題の五作に対する予審第一、二回訊問調書の任意性、信憑力を認め第二審判決の正当なることを確認したのである。

五、五作に対する予審第一、二回訊問調書の任意性及び信憑性、についての当裁判所の判断、

1、任意性について(拷問の事実の有無)

所論は、右予審訊問調書(第一、二回)は五作が警察で言語に絶する拷問を受けその影響により意思を全く強制された状態の下に作成されたものであり、この事実を証明すべき証拠を新たに発見したと主張するので、まず記録について、五作に対する取調の経過を調査すると、同人は昭和一一年五月一三日本件容疑者として小田原警察署に連行されたまま同年六月八日頃横浜刑務所に移されるまで留置されて取調を受けたのであるが、同月一日頃それまで否認を続けていた被疑事実を認むるに至り同署司法主任小堀不二雄の聴取書が作成されたこと、その後予審請求がなされ予審判事竹村義徹の取調が行われた結果、犯行を自白する旨の予審訊問調書(第一、二回)が作成されたことが認められる。

そこで小田原警察署における五作の取調状況につき検討するに、

再審請求人の請求により取寄せた横浜地方法務局昭和三一年受理第二一号申立人高杉五作寃罪申立事件記録中同人の法務事務官桜井幸、同脇昭二に対する調査書(昭和三二年二月七、八日付)には五作の供述として、「五月一三日、尾形、西島、吉田巡査の態度は最初は機嫌を取るような態度であったが、二、〇〇〇円入っている保険に更に二、〇〇〇円加入した保険の動機等については私の答を抑えて詰問が始まり最後にはこの保険金がほしさに火を付けたのだろうという意味の質問を繰り返しこれを強く否認したところ、二つ三つ尾形から『そんな馬鹿なことがあるか』ということで撲られたように記憶する、午後八時頃再び刑事部屋に連れ出され尾形から取調を受けたが、その時の模様は先程とほぼ同様で私の両脇には西島、吉田両巡査が控えており、正面に座った尾形から取調を受けた昼間と同様加入した保険金が取りたいばかりに放火したのだろうという意味のことをたたみ込んで問われるので、決してそのようなことはないと否定したところ、尾形は勿論左右にいた西島、吉田の両名から頭の毛や耳を引張られたり、拳骨で頭を逆さになぜられたり、左右のアバラを下から握り拳でこすり上げる等の暴行を受けた、そのような取調は午後十時頃まで続いたように記憶する、翌五月十四日の取調は一つ二つ殴られる程度で余りひどいことをされなかったが、保険関係のことについて強く追求されたように記憶する、五月十五日は昼間刑事部屋に呼ばれ私を正座させて右側に西島、左側に吉田と外に一人名前の判らない刑事が付添い尾形は私に向い合って椅子に掛け最初のうち四人で私を取り囲みかわるがわる『白状しろ白状しろ』と責めたが私が『知らない』と否認すると、足でけったり、頭の毛を抜いたり、拳骨でアバラをこすったり、その間には平手で顔を殴るなどの拷問を加えた、それでも私が否認したところ、両手を首の後に廻したままの格好で手錠をかけそれに一貫目位の分銅を下げたその分銅の紐は鎖でつないだように記憶する、そのようにしておいて尾形はじめ四人の巡査がかわるがわる所かまわず殴る、ける、髪の毛を抜く等の乱暴をしたが、しまいには私を突倒し、転がった私を反対側に突飛ばし、突飛ばされた処にいる刑事が又反対側に転がすという何といったらよいか四人の中をぐるぐると廻された、私はその苦痛をこらえるために着物の袖を歯でかんで我慢したが、着ていた着物がぬげてしまい裸と同様になってしまった、四日目の五月一六日は二階に呼び上げられ床にゴムのでこぼこした上敷が敷いてありそれに私を正座させて、正面に尾形、両脇に二人後に一人の刑事が私を取巻いて前日の様な訊問を受けた、それに対し私が『知らない』というと殴られ、これがこうじてくるに従い強くなり靴でしょっちうももを踏み、外の人は頭の毛を抜いたり、耳を引張ったり、アバラを拳骨でこする等の乱暴をした、なお、その上に私は手玉にとられるようにあっちに倒されこっちに倒され早くいえば誰かの前に行くと反対側にころがされ、その間にけったり、殴られたり、又後に手を廻して捩り先程述べたようにアバラを握り拳でこすり上げられた、左様な拷問をされているうちに又裸にされてしまった、五日目の五月十七日は午前はなく午後引出されたように記憶する、その日は昼頃から夜が明けるまで前日同様の取調べを受けた、六日目の五月十八日には夜引出されたように思う、その時には椅子を持って立たされ肘が少しでも下ったりその椅子が少しでも傾いたりすると、むちや拳で肘や顔など所かまわず叩かれたが、椅子を長く捧げていることは続かないので私が倒れるか椅子を落すかしてしまった、すると又正座させ両側に一人づつ刑事がいてかわるがわる詰問され、又靴でけったりその時間も段々長くなり、又力も入って来たので、その傾から何回となく気絶したばかりか動けなくなったように思う、その翌五月十九日も引出され、又前と同じ様なことが繰り返されたが、私が留置場から引出される時には既に動けない様な状態で同房の人が私の動作立居に手をかして助けてくれた、便所に行くのにも立って行くことができず、廊下をはって行った、留置場を出る時には巡査は一人だが、刑事部屋の付近から二人ないし四人の巡査となり引張る者は引張り後から足をける者はけるといったような状態であった、私は二階に上ってからは正座させられ相変らずける、殴る、耳を引張る毛を抜く頭をぐるぐるこする、脇の下をぐるぐるこする、私がこれにたえられずに倒れると、あっちに転がす、こっちに転がす、殴る、ける、抑えつけて手を捩る、脇の下をくすぐる等の拷問を受けた、その時間は三時間から四時間位長い時は五時間も六時間も続く、徹夜となり夜が明けたことが確か二日はあったように記憶する、そのような拷問を受けて帰る時は気絶してそのまま直ぐに帰されたのか、気絶して暫くそのままにして置いて帰されるのか夢中でどの位経って帰されるのか判らなくなってしまった、拷問されているうちに刑事のささやきに、『まず小田原始まってこんな強情な奴はないこれ以上責めようがない明日は道場で投げようじゃないか』ということが耳に入った、道場での拷問の状態については、『もういいかげんに白状しろ、随分強情な野郎だ小田原に来てこんな手古ずらせる奴はお前以外にないぞ、痛い思いをせずにいいかげんにはいたらどうだ』と責められ、『何といわれても私は知らないどうされても仕方ない』というと、『この野郎づうづうしい野郎だ』というのでビンタが来る、それを繰返し、そのうちに柔道でかついで投げ始める、それはかわるがわる投げるのだ、その仕方はこっちの人が投げ飛ばすと投げ飛ばされた私の先にいた人が私を拾って投げるのだ、そのようなことが暫く続いて私はほとんど動けなくなると、麻なわで私の腹の辺を縛って道場の梁に吊し上げた、その時間は三時間位と思うが、その間刑事も四人とも寝ていた、そのうち吉田が目を覚して『下ろしてやるから白状しろ』といって下ろした、その時三人が目を覚し、座らせて置いてける、そして四人共車座に私を取囲んであぐらをかき責め始めた、それからビンタを張られたうえ、転がしたり投げられたりした、そのうえ手足を麻紐で縛って逆さに四、五十分吊し、それから下して手足を縛ったまま仰むけに転がし、鼻や口からとうがらし水ようのものを注ぎこまれ、その日はそのまま動けなくなってしまって正体があったかないか留置場にどうやって帰ったか知らない、その翌日又引出し椅子を持って立たせるが、私はもう立てない、すると『この野郎たばかってやがる』といって殴る、殴っても私は椅子を持って立っていられないので、そうしていると前のように座らせて殴ったり、けったり、転がしたり、次に道場にもって行ってそこで投げる、又逆さではないがいいかげんのぶらぶらに吊して手は後に縛ってあり、そして竹刀で殴られた、吊された時間は二時間位で、又下して殴られる、柔道で投げられる、又鼻から水を注がれる、兎に角その時は正体がない位で留置場から引出されるにしても、もう意識があるだけで自分の体が自分では動けない状態になっていた、気分的にもそれを頑張る気力がない、只ここで死ぬと家名をきずつける、ここで死んでしまうか、うそでも何でもここ一時しのぎにやったといって拷問だけを逃れるかということを考えた、警察における昼夜をわかたぬ言語に絶する拷問の結果、生命の危険を感じたので、犬死をすることがいやさに警察官が勝手に作ったいわゆる作文の調書に拇印したため取り返しのつかないことになってしまった、私が自白をした日は判然憶えていないが、六月八日笹下の横浜刑務所の未決に送られる一週間程前に行われた最後の拷問の時と記憶する」

同調査書(昭和三二年四月二二、二三日付)にはその供述として、「前の調査書で拷問が五時間から六時間も続き徹夜となり夜が明けたことが確か二日はあったように記憶すると述べたが、これは夜通し拷問されたことが二日あったということで徹夜で拷問されたのは八日目位からと思う」との旨の各記載があり、五作の桜井法務事務官に対する供述を録音した録音テープ、五作の弁護士寺坂銀之輔宛一月三一日付書簡一通(「小田原警察署の拷問の概略」と題する書面添付)には前同様の拷問を受けた旨の供述、記載がある。

又、再審請求人高杉フクの当審供述調書(第一、二回)にはその供述として、「私は本件で小田原警察署に主人五作と共に留置されたが、房に入って十日過ぎ頃から主人の様子でひどい調を受けていることがわかった、それは主人の顔色が悪くなり顔がむくんで来たし、また、頭が日増しにふくらむようなおかしな恰好になって来た、なお、裾をまくりびっこを引きながら帰って来る姿を見た、控訴審で主人が裁判所にこれが警察の調べのとき拷問を受けた跡だといって膝をまくり黒痣を見せており、そのとき拷問を受けたことが判った、主人が昭和十八年四月二十九日仮出所後拷問の事実を詳しく聞いた」との旨の記載があり、証人大津フミの当審尋問調書にはその供述として、「私は恐喝容疑で夫要之助と共に小田原署に留置されたことがあり、そのとき私の前の房やそこから三番目位先きの入口の見える房に主人と一緒にいた五作が取調のため房を出され相当時間を経過してから房に帰るのを見ると、出て行ったときとは違い顔はむくみ、足もむくみ血が出ていて歩けない様な状態であった、夜連れ出して五作を調べることもあったが朝まで調べているようなことはなかったようだ、夜遅く竹刀の音が聞えることがあり道場へ行ったことはないがそこで調べをやっているのではないかと感じたことがあった」との旨の記載があり、証人佐々木仁久の当審尋問調書にはその供述として「高杉が小田原署の私と同じ留置場に入って来たとき膝のところから血が出ていたのでどうされたのかと聞いたところ、『取調官が自白を強要したが私はやったことがないのでやらぬといい張ったらこのようにされた』といっていた、それから三四日経った頃、右口唇辺りに血が滲んで戻って来た、そして房の中では隅の方で小さくなっていた、負傷しているのを見たのは以上二回だけで高杉の顔がむくんでいたとか房から出たときと帰ったときに顔の形が違っていたというところは見なかった」との旨の記載があり、更に、証人二見若家次の当審尋問調書にはその供述として、「私は当時大和新聞の地方通信員で記事の取材のため小田原署に行ったとき取調べから帰る五作を留置場の入口辺りで見たが同人は肉体的にも精神的にも疲労困憊した様子で歩いているのを見たので、傍にいた警察官に聞いて初めて門川の高杉であることを知った」との旨の記載があり、小堀不二雄、尾形林蔵に対する告訴状添付の昭和一三年一月一九日付東京控訴院第一刑事部公判調書(一部)に証人大津要之助、同中村茂与の供述として、「取調べを終り監房に戻って来た五作の身体を見ると脚の辺に幾つもの擦り創や黒くなった痣等ができており口の辺りが切れ又顔が腫れて飲の食えないようなことがあった」との旨の記載がある。

以上の各証拠によれば、小田原警察署においての五作の自白は、暴力による肉体的苦痛を伴う取調の結果なされたものであり、同人の任意に基づくものとは認めることができないのではないかとの疑を懐かせるものがあるが、右は後記取調を担当した警察官らの供述等と対比し遽かに措信することができない。

すなわち、証人尾形林蔵の当審尋問調書にはその供述として、「私は当時小堀司法主任の下で西島、滝本両刑事、吉田巡査か斎藤巡査と共に本件捜査に当り五作を大体は刑事室(畳敷)で取調べたが畳敷の休憩室で調べたこともあった、道場での調べが一度位あったかも知れぬがよく判らない、畳の上で一時間ないし一時間半位正座させて取調べをしたことがあるが夜調べた記憶はない、五作を殴ったり、けったり、頭髪を引張ったり、竹刀で殴ったことはないし、道場での調べの際縛り上げて梁に吊すとか麻繩で縛るようなことは知らない、調べ室と留置場との往復は普通に歩いていた、保険の関係、それについての奥さんと話合いの関係、商品の関係など追求した結果申し開らきができなくなって自白したと思う」との旨の記載があり、証人吉田光顕の当審尋問調書にはその供述として、「私は当時一番新参の刑事巡査であったが、神奈川県下の警察での拷問事件が新聞に出たことがあって浅田警部補から特に私達刑事に対し取調に慎重を期すようにとの話があったのでそのようにした、私は拷問をしたことはなく、私が立会った限りで他の人も左様なことは絶対にしていない、刑事室での五作の取調べに立会ったが同人の顔が腫れ上っていたりひどく弱っていたような様子はない、お読聞けの取寄せにかかる寃罪事件記録中五作に対する調査書中第一六項、第一八項、第一九項、第二三項のような拷問の取調べをした事実は絶対にない」との旨の記載があり、証人西島等の当審尋問調書には、その供述として、「私は当時刑事巡査として五作の取調べに立会ったが、同人を殴るとかけるとかいうことはなく、同人が調べを受けて帰って来るとき顔がむくみ足を引きずるようなことはなかったと思う」との旨の記載があり、更に、証人小堀不二雄の当審尋問調書にはその供述として、「私は司法主任として本件捜査を担当したが綿密で温厚な尾形に全部を任せた、同人は刑事部屋が畳敷でありそこに自分もきちんと坐って調べるというやり方であり信用していた、取調に当って尾形とその部下に限り五作を殴ったりけったりしたことはなかったと思う、五作の自白調書は、本人が本当の自白をしていたとの心証を掴み夕方から午後九時頃までに作成したが、そのとき同人は今までお手数をかけて申し訳なかった、あれだけ焼けたので自白できなかったといい、サメザメと泣いてさっぱりした顔になっていた、それで良いか悪いか判らないがそのことを一段上げて調書に記載した記憶がある、自白するまでに十日以上経っていたが、顔がむくんでいたようなことは全然なかった、重荷を下ろしたということで晴々としており本人はよく寝られるといったことがあり善人の顔だった」との旨の記載がある。

次に、昭和一三年一〇月付告訴状写及び再審請求人高杉フクの当審供述調書(第二回)の供述記載によれば、五作は横浜地方裁判所検事局に対し小堀不二雄、尾形林蔵の両名を本件拷問の被疑者として告訴をしたが、右事件はその後同庁において不起訴処分に付された事実が認められる。

右尾形林蔵が第一審の公判における証人として取調を受けていることはすでに述べたとおりであるが、同人は同署刑事係巡査部長として本件捜査の事実上の主宰者であったから、もしその取調の過程において拷問の容疑があるならば、取調官として最も重い責任を追求されるべき立場にあったものである。

本件刑事確定記録が現存しないので、右尾形証人の証言の趣旨を仔細に吟味することのできないのは遺憾とするところであるが、当審において同証人は「横浜地方裁判所で調べを受けたとき、高杉の犯行の動機とか模様について尋ねられたように思うが、その他は記憶しない」と供述しており、再審請求人高杉フクは当審において(当審供述調書((第二回))の供述記載参照)第一審における尾形証人取調の公判廷では本件で問題となっている拷問の点については一言も触れなかったと述べ、一方、五作の前記調査書(昭和三二年二月七、八日付)の供述記載によると「警察でのに拷問より虚偽の自白をしたのでこれはとんでもないことをしてしまった、公判では是非本当のことをいって真剣に争わなければ駄目だと決心した」「公判廷での尾形の証言は拷問の事実を否認した、これに対し私は手続に暗かったため反問をしなかった、弁護人も又余り強く食いつかなかったように記憶する」旨述べている個所があり、尾形証人に拷問の事実の有無につき尋問がなされたかどうか必ずしも明確とはいい難いけれども、少くともこの点について突込んだ尋問がなされなかったことは明らかである。しかし、もし、前記調査書に現われたような言語に絶する拷問の事実が真実であるならば、拷問を受けた当の被害者はほかならぬ五作本人であるから右尾形に対する証人尋問の際同証人に対してすべからく右事実を確認させる態度に出るのが当然の措置であり、さらに進んで同人に述べた自白の虚偽架空であることを極力主張すべきところである。そして、右拷問の事実を明確にすることは、取調官の刑事上の処分もさることながら、これこそ五作本人の無罪を推定すべき唯一の極め手であった筈であり、前記のように反問をしなかったとして平然と済ませる筋合のものではない筈である。尾形証人は第一審、第二審、上告審を通じ警察官として取調べられた唯一の証人であったのではないかと推察されるが、何故直ちにその場で反対尋問により深く突込んで真実を吐露し尾形証言の証明力を覆さなかったか一抹の疑問の残るところである。五作に対する前記調査書の供述記載にして誤りがなければ、右尾形証言の信憑性において疑を存する余地がなかったのではないかとも推察されるのである。

以上の各証拠、認定の事実を綜合すれば、小田原警察署における取調の過程において五作に強制、拷問又は脅迫を加えて自白を強要した事実は本件に現われた爾余の証拠によるもこれを認めることができず、五作の警察官にした自白にその任意性を疑う余地は存在しないといわなければならない。

しかして予審判事の五作に対する取調が適式に行われた結果予審訊問調書(第一、二回)が適法に作成されたことは記録上明らかであるから、同人の調査書(昭和三二年二月七、八日)の供述記載はよって窺われるように、たとえ五作が予審判事に対し検事も予審判事も警察と一本につながっていて、もし警察で述べたことと違ったことを申立てた場合、警官に受けたと同様のひどい拷問を受けるのではないかと考えて事実を認める旨供述したとしても、前説示のとおり拷問の事実の認められない以上右は同人の誤った判断に基づくものであって到底採用の限りでなく、右訊問調書(第一、二回)の任意性を認むるに十分であるといわなければならない。

2、信憑性について

次に、再審請求人は、五作の自白の中には幾多の矛盾、不合理の点がありその虚偽であることが証明されたと主張する。すなわち、

(一)  放火の動機について

(1) 五作の自白によれば、鰹節営業の同業者との競争の激化と借財の返済に苦慮して本件犯行に及んだとされているが、当時五作は鰹節営業の外に畑五反歩位に栽培して柑橘類の販売をしていたのであるから、たとえ鰹節営業を営むことができなくなっても家計の途が断たれるというおそれはなく、他に転業することも容易であり、また、右借財としてもすべて特別の縁故関係にある貸主から借受けたものでその返済の催促を受けることもなかったのであるから、これは矛盾である。

(2) 五作の自白によれば保険金獲得が動機となっているが、本件火災保険契約はいわゆる商品保険に属し罹災当時の現実被害を査定しこれに相応する保険金が支払われるもので、査定の手続もなく直ちに保険金全額が交付されるものではない。しかも五作は出火と同時に白井甚吾らの協力により店舗内鰹節の荷造りとその搬出に努めているのであって、これは五作に保険金獲得の意図がなかったことの証左である。

(二)  放火の顛末について

(1) 五作の犯行を決意するに至った経緯に関する自白は、常識的にも不自然であり生理的、心理的にも作為の跡が感ぜられ虚偽というのほかない。

(2) 五作の自白によれば、風が西南方から吹いていたので薪小屋が焼ければ自分方に燃え移ると思って放火したとされているが、当時風は南々東ないし東方から吹いていたものであって、堆肥小屋或は堆肥小屋と薪小屋との中間から火が出ているのをみたという目撃者の証言に徴するもこれは不合理である。

(三)  失火について

本件は何人かの煙草の不始末による失火に基因すると考えるのが極めて合理的である。

というにある。

よって審按するに、

(一)  放火の動機について、

(1) 五作は、当時鰹節営業の同業者との競争が激化したため当分利益なしに商品の売込みをして得意先との取引を続け自己の営業の地盤を確保しようとし、また借財返済のためその資金を得ようと決意したことが五作の予審訊問調書(第一、二回)の供述記載(以下自白という)に現われている。弁護人提出の中村末吉商店より五作宛昭和九年六月二九日付封書は事件から二年前の取引関係を記載した書面で右自白と直接の関係はない。

また、柑橘類販売の点は五作の調査書(昭和三二年二月七、八日付及び同年四月二二、二三日付)の供述記載(以下五作の供述という)により窺知されるが、これはいわゆる副業とも見られるもので主たる生計の途は家業たる鰹節営業による収益に依存していたのではないかと推認されるので、右家業を継続しようとの意図のある右自白に些の矛盾はない。

次に、上告審判決書謄本掲記の弁護人岡村正男上告趣意第二点に記載された各証拠によれば、当時の五作の借財は、浅田啓吉三〇〇円、石井武雄五〇〇円、二見市太郎三〇〇円計一一〇〇円であって右貸主は五作と親戚或は別懇の間柄にあったので、一度も弁済の催促をしたことはなかった事実が認められるが、五作の右自白によれば、親戚その他に義理のある借金があり借金は請求されないが請求されないだけ債権者に対しては早く返して心配をかけたくないと思って本件犯行に及んだというのであるから、右自白に不合理の廉はない。

(2) 所論指摘の本件火災保険契約がいわゆる商品保険であるかどうか、また、何故五作が出火時家財道具に手を触れないで鰹節の荷造りとその搬出に熱中したかの点については、既に第一、二審において慎重に審理を重ね検討を加えた結果、何ら経験則に反する事実はないものと認めて有罪と認定したことが記録上窺われるので論旨は理由がない。

(二)  放火の顛末について、

(1) 自白にある犯行決意の経緯について、その動機、決意の過程、趣旨を仔細に吟味してみても、所論のように作為の跡は認められず、極めて自然にありのままを述べたものと推認される。

(2) 風の方向、放火場所については、第一、二審においては、何らの矛盾も経験則に反する事実はないものと認めて有罪としたのである。

最初の出火発見者と認められる野口はまの当審尋問調書の供述記載も右自白とほぼ合致するところであり、証人須藤ハナの当審尋問調書の供述記載は右証拠と対比し措信し難く、第二審判決挙示の証拠を検討するも前記自白に矛盾不合理の点はない。

(三)  失火について、

所論は、本件は失火であると極力主張するが、この点については既に第一、二審においても仔細に審理、検討を重ねた結果、失火ではなくて放火であるとして有罪の認定をしたものであり、弁護人提出の証拠資料はすべて風聞か臆測に基づくものでその根拠も極めて薄弱であって信用性に乏しく到底採用の限りでない。

以上のとおり五作の予審訊問調書(第一、二回)には所論指摘のような矛盾や不合理の点は弁護人提出にかかる全証拠資料によってもこれを認めるに由なく、その信憑性に欠けるところはない。

六、結論、

これを要するに、本件に現われに捜査の経過、五作の自白、各証人の供述その他諸般の資料を仔細に検討するときは、前説示の如く五作の予審判事に対する自白はその任意性はもとよりその信憑性も十分であるから、これを以って確定判決の犯罪事実を認めることができるといわなければならない。

しかして、本件において弁護人提出の証拠資料はすべて旧刑事訴訟法第四八五条第六号にいわゆる明確な証拠に該当しないものであって、その他新に発見せられた明確な証拠の認むべきもののない本件においては到底右法条所定の再審事由のあるものということはできないから、同法第五〇五条第一項により本件再審請求を棄却することとし、主文のとおり決定する。

(判事 関重夫 小川泉 裁判長判事長谷川成二は転任につき署名押印することができない。判事 関重夫)

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